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自己と社会の相克を超えて-吉田富久一の実践

松永  康

 社会は進化している。明治の開国以来、日本には次々と西欧の文明がもたらされた。そのことでわが国は急速に近代化が進められるようになった。そして敗戦後は、徹底した民主化政策により生活のためのアメニティも国民の間に一様に行き渡った。こうして、産業や法制、交通網といった制度面における近代化はほぼ完了したと言ってよい。しかし文化面に関して言えば、その近代化が充分に行われていないことは、今日の自殺者の数を見れば明らかだ。文化の近代化とは端的に言って、個人を軸として人間関係が成り立っていることだが、日本ではそれがうまく機能していないのだ。これを実現するため、西欧ではルネサンス以降の芸術が大きく貢献した。日本でも、開国時には近代的な精神に基づく西洋芸術が導入され、少なくとも知識階級の間では個人主体の人間関係づくりに役立った。ところが戦後になると、西欧ではそうした自己意識が病的に肥大化してきて、芸術の世界ではむしろそれを超えるための試みが行われるようになる。そして我が国にも、そうした時代精神を反映する新たな芸術表現が導入されるようになった。個人の中心性がいまだ不明確であるこの土地に、個人を超えるための方法論が入ってきてしまったわけだ。ここに、戦後日本の芸術活動が抱える困難さの一因がある。

 

吉田富久一もまた、わが国が孕むこうした矛盾の中で自らの表現を模索してきた美術家のひとりである。

吉田は1978年に大学を卒業すると、群馬県最北の利根郡利根村(現・沼田市利根町)にある県立武尊(ほたか)高校(現・県立尾瀬高校)に美術教師として赴任した。そこは2,000m級の山々に囲まれた小さな山村だった。この辺境の地にあっていったい何が描けるのか、思い悩む日々が続いた。あるとき、山に閉ざされた圧倒的なその空間感を、そのまま作品に置き換えることができるのではないかと考えるようになった。摸索の末ようやく制作が再開されたのは、赴任してから一年半後のことだった。

1987年、ギャラリーセンタ―ポイントの個展で発表された作品を見てみよう。そこには、壁面をうねるように作品が配置され、さらに床面にまでせり出させるという方法がとられている。それはいくつかのパーツで組み立てられ、それぞれ細い並行線で埋められている。山間の小村で体験した山と生活空間の関係が、抽象化を経て画廊の壁と床の上で再現されたわけである。

ストライプによって形体を構成していくというやり方からは、ジャスパー・ジョーンズなどの記号的な作品との類似性もうかがえる。実際に吉田は、学生時代からアメリカの現代絵画に接する機会がしばしばあった。そのためこうした作品の現れが、吉田の中に無意識に入り込んでいたことは想像できる。しかしジョーンズが絵画の象徴性を排して即物性に向かおうとしたのに対し、吉田の作品の背景には強烈な実体験があった。言い換えれば、ジョーンズが個人の感性を超えようとしたのに対し、吉田はあくまでも自らの感性にこだわり続けたのだ。そこには、近代を超えるのかそれともそれを深めるのかという、明白な方向性の違いがあった。

 

吉田が改めて他者との関係を見直す契機となったのは、美術家であり実業家でもあった金子英彦氏との出会いであった。金子氏は、「気の抜けた美術に立ち合うよりも、経済論文を読む方がずっとおもしろい」と言って憚らない人物だった(※1)。しかし、その言葉は吉田に、美術と社会の関係を深く顧みさせるための動機づけとなった。こうした思索の中で、美術を通して社会性を獲得するための新たな実験が開始されたのである。かつて群馬県には、金子らを中心とした「群馬NOMOグループ」と呼ばれる前衛芸術家グループがあった。彼らは都内での作品発表と並行して、県内でも周辺の人たちを巻き込みながらさまざまな活動を展開させていた。ところが1980年代に入ると、こうした活動は新たな段階を迎える。美術家が主体となって展覧会を行うだけでなく、その他の美術関係者もそれぞれに役割を担いながら、県外に情報発信するようになっていた(※2)。

地域における現代美術の拠点として、沼田市内に「アートハウス」が開設されたのは1987年のことだった。ここでは展覧会ごとに企画者を設定することで、作者、企画者、鑑賞者といった役割を明確化することを心掛けた。そのことで吉田は、美術が流通するためには美術家以外の美術の媒介者の存在が不可欠であることをアピールしたのだ。

アートハウスはその後、諸事情の変化に伴い高崎、前橋と場所を移し、2001年の桐生での事業を最後に休眠状態に入る。しかしこの運営を行った13年は、美術関係者という閉じられた人々の間ではあったが、美術と社会活動がいかにリンクできるかを考えるための貴重な実践の場となった。

 

話は戻るが、1996年、群馬県佐波郡玉村町で大がかりなモニュメントが建設されることになる。終戦50周年と核兵器廃絶・平和都市宣言10周年、さらに町制施行40周年をいっぺんに記念してしまうものだ。そしてこの制作依頼が、同地にあった群馬県立女子大学に舞い込んできた。吉田がちょうど、同学の文学部美学美術史学科のデザイン担当として教鞭を執っていたときのことだった。

このプロジェクトを担当することになった吉田は、これを学科の演習科目の一環として位置づけ、実技を専攻する学生とともにその設計に当たることとした。また、この実現のためには建築設計に関する知見や外部のマネージメントが必要となるため、知り合いの建築家やデザイン会社にもチームに加わってもらった。こうして「玉村町平和モニュメント」の推進計画が稼働することになる。

玉村町は、北に赤城、西に榛名と浅間、西南に御荷鉾(みかぼ)といった山地を控え、南東に関東平野を臨むという位置にある。降り注いだ雨が山腹に浸み込み、地下を通って丘陵地帯を下っていくという構造だ。そしてそれは、湧水となってこの地の人々を潤し、生活の中に循環の渦を生み出してきた。このモニュメントを通して吉田は、地域を取り囲むこうした自然環境のイメージを、平和へのメッセージとして象徴しようとしたのだ。

与えられた敷地には2つの小山があった。その南側の山を削り取り、緩やかに掘り込んで円形の窪地とした。山の頂上に引かれた水が水琴窟に滴り落ち、山の斜面に埋められたパイプを伝って南側の窪地へと注がれる。貯まった水は汲み上げられ、浄化装置を通って再び池へと戻される。給水口と排水口の石の蓋にわずかに左向きの傾斜がつけられているため、池の水はやがて左に回り出すという仕掛けである(※2)。吉田は池の中央に、全体を引き締めるポイントとなるものを置きたかった。それは大地の生成を象徴するもので、できるだけ人手の加わっていない自然物が望ましかった。そんなことを考えていたとき、群馬と栃木の県境にある沢入(そうり)というところで巨大な石が出たとの情報を得た。さっそく現地を訪れると、険しい山の尾根づたいに佇んでいたその石は、あたかも何万年も前からこのときを待っていたかのように吉田らを迎えてくれた。

町の職員はおそらく、一般的な彫刻作品のプランが出てくることを予想していただろう。ところが役場に提出されたのは、「実りの大地」と題された敷地全体を使った環境造形作品であった。吉田は町議会にも赴いて趣旨説明を行った。議員たちもまたその壮大な構想に、狐につままれたように了承せざるを得なかった。

 

2002年、吉田は東京に居を移す。それまでは、美術作品の独自な制作と展覧会の組織的な運営を並行して行ってきた。しかし、吉田自身に起きた大きな変化の中でこれまでのそうした方向は一変し、自らの活動を社会のさまざまな事象をつなぐための純粋な媒介としたいと考えるようになったらしい。このとき吉田の中では、機能不全に陥った今日の社会を造形活動によって根本から再構成するために、自らの人生を捧げる覚悟が固まったのかもしれない。この活動が開始されたのは美術作品の展示場ではなく、空き地や駐車場、アーケード商店街といった、人々が行き交う街空間の只中であった。吉田はそこで、必要なものを積み込んでどこでも自在に催しが開ける、「可動式仮設店舗」や「自力更生車」なるものを開発して引き回していた。また傍らには、人々が集う場所として「東西見聞シェルター」と名づけられた竹製のパオも用意された。こうした活動は、すでに美術や芸術といった枠を超え、芸術と社会とを結ぶための新たな表現様式の創出を予感させるものとなっていた。

「社会芸術」という言葉もこの頃から使われるようになる。芸術家には本来、利己的な意味での自由はなかったと吉田は言う。ところがそれが近代以降、極めて自己本位的な営為となり、その結果、芸術は表現者によって自ら消費されるものとなった。だからこそ今、芸術は公共性を持つことができず、社会から遊離してしまったのだと分析する。

一方で今日の社会もまた、人々は職能別に分断され、異なる仕事をしている人どうしが意思疎通することさえ難しくなっている。それほどまでに、それぞれの分野の意門性が高くなっているということなのだろう。そこで改めて、芸術と社会が持っていた本来の機能を見つめ直し、双方を包括する新たな概念を創出することで、一段階上の人間社会を生み出すために「社会芸術」は提唱されたわけである。

 

冒頭に記したように、西欧の先進諸国ではすでに近代の終焉が近づいている。そして現実に、それを超えるためのさまざまな試みが行われている。わが国でも、東京を中心に進められてきた制度面での近代化が行き詰まりを見せ、それを超えるための実践があちこちで始められている。一方で文化面においては、わが国は未完の近代のままだ。だからこそ私たちは、制度面における脱近代の試みと文化面における近代化の実践を並行して行われなければならない。繰り返すが、ここが今日の日本の困難さの一因である。

吉田の活動はまず、近代的な精神を陶冶するための絵画制作から始められた。抽象化という方法を用いてはいたが、制作に当たり実体験を基盤とすることでそこでは自己意識の深化が図られた。一方で、それと並行して「アートハウス」の運営が開始される。ここでは参画者がそれぞれに固有の役割を担いながら、ひとつの事業を成り立たせるという方法が採られた。そこには、東京から地方へと序列化させてきた中央集権型の官僚支配システムを排し、より平板なプロジェクト・チーム型へと向かう脱近代的な組織論が見られる。この近代的な作品の制作方法と、脱近代的な組織の運営方法を最もバランスよく結実させたのが、玉村町の「平和モニュメント」であったと言える。

その後の吉田は私的な作品の制作をやめ、自己表現を行う者としての美術家の役割を放棄する。そして、「社会芸術」というプロジェクトを通して人々の営みをつなぎ、社会を豊かにするための媒介者へと昇華させてきた。人が集うためのパオや移動展示のための荷車といった造形物にもはや美術としての自律性はなく、これらを「美術作品」と呼ぶことはできない。こうした吉田の活動の変遷に、まさに社会進化の在り様が重ねられるのではないだろうか。

近代化以前に「美術」はなかった。造形物には必ず何らかの用途があり、それに応じて「聖像」や「肖像」などと異なる名称で呼ばれていた。ところが人々の間に近代精神が芽生えると、他の用途を持たない自律的な造形作品が求められるようになり、そのことで人々はさらに自意識を高めていった。こうした経緯を経て初めて、「美術」という概念は生まれたのだ。

文化面での近代化を終えていないわが国では、これからもまだしばらく美術の有用性は失われないだろう。しかし一方の制度面においては、私たちはすでに近代システムの中で身動きが取れなくなっている。だからこそ今、この2つの異なる位相における改革が必要なのである。こうした困難な社会状況の中で、吉田の推進してきた「社会芸術」が私たちを力強く牽引していってくれることを願っている。

 

 

  脚注

  ※1 「おわりに」吉田富久一(『自力更生車の旅』2011年、社会芸術、27p)

  ※2 1982年に渋川で福田篤夫氏がコンセプトスペースを開いたのは、その象徴的なできごとだった。

  ※3 ここには「コリオリの力」も働いている(地球の自転の影響で、北半球では渦が自然に左に回る)と、吉田は説明している。

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