top of page

TANBOプロジェクト

 里山、里地は先祖から引き継がれ今も生き続ける伝統のエコロジーである。

棚田や谷津田、ワラ積みの造形美や調和を思い起こしていただきたい 「生きた芸術である里山」

そこでは人間が成す仕事の必然性が 自然に沿っている故、自ずから美も生まれた。

 芸術はその文字からして、芸は草冠の下で人が膝まずき植物を育てる姿であり、術は行くという文字の中に米粒をつけた手が加えられている。わたしは彫刻制作を続けるなかで、彫刻の素材である土、石、木、といった自然に触れてきたがそれは、水、風、炎、が身近であったそれは 遥かな昔からの営みを追体験することでもあった。一万年をはるかに越える縄文時代より人は大地と空の間で呼吸をとって生きてきたのに、今やあまりにも人工の産物に満たされて生活を余儀なくされている。ふかふかの田の土に触れると生き返るように感じる。そこはたくさんの生命体で満たされている。今回の現場展の会場、加田屋田んぼでは刈り取った藁の香りのなかで、子どもたちたちは嬉々としてたわわに実った稲を運び、井戸ポンプを押しては水と戯れて歓声をあげていた。

 春、ファーム21の主催する田植えは家族連れで賑わっていた。広大だった見沼田んぼも今や畑に変わったり放置されたりして、米作は僅か5パーセントになってしまった。地元見沼出身の参加作家の安部さんは、かっての子ども時代との違いを目の当たりにし、「今や田んぼはワークショップのとして体験するものになってしまったんですね」と印象を語った。

 わたしたちは自らの衣食住をこの30年で急激に変えてきた。安部さんは「温故知新」とは何かと考える、という文章をチラシに寄せている。たしかに縄文の土器や農具、織物も衣食住に密着した用のひらめきに満ちている。吉田さんはこの2-3年前から始めた土器の制作の中で「粘土がこんなに面白いとは思わなかった」ともらしつつ、用として火焔土器の働きに気づき「火焔土器も焼町土器も器として煮炊きに使ったのではなくて、火鉢だったと思う。火鉢に手をかざし鍋をかけ、灰で調理を行う生活は縄文時代からわたしたちが子どもだったころまで一万年も続いていたに違いない」と述べる。今回土器管を燻炭焼きの煙突としてつくるワークショップを行ったが、その土器管によく似たものを資料館の埴輪として発見した。埴輪は、煙突や水を運ぶための管や暗渠として機能していたと推察する。

さて、わたしたちは今回の企画を「田植えから始まる現場展」としてスタートさせた。戦後その消費量は三分の一になったとはいえ、わたしたちの命を養ってくれる稲と関わっての展覧会である。しかし企画の本意は展覧会という形にあるのではなく、人と人、人と自然とが新しくむすばれることであり、人と自然との関係性が構築され未来へ向かうということにある。見沼地区でかって行われてきたという藁積み「ふなの」について調べてきたファーム21の岡村さんは稲の三宝について土器で煙突をつくるワークショップの最中に話しをしてくれた。 実、もみ殻、藁を称し三宝と言われる稲、それは、生(イ)きる根(ネ)として食されるだけでなく、藁は燃料や肥やし、生活用品となり、もみ殻は燻炭に焼かれて土壌改良に役立ってきたことに確認を深めている。 今回の現場展では三宝を確認しつつ、ひらめきの翼を広げていただけたらと思う。土器の煙突を使ってもみ殻の燻炭を焼き、日没より吉川さんが映像を照射する。今日は柳井さんが藁での10メートルからの紙漉きを終えた。共に作業にあたった我々もしばしほっとしたところである。

作業はエキサイティングであり、公開であったので見学にいらした方にもお手伝いをしていただいた。最初、今年に刈った藁しか用意されていなかったなかったために作業は難航した。藁の繊維を取り出すために田んぼで大きな鍋を使い、土器を野焼きした際の灰を大量に入れて煮たが、新しい藁はなかなか柔らかくなってくれない。友人のアーティスト、磯さんがつききりでいっしょに作業。半日煮た藁を水洗いし灰汁を落とす。人手がないこと、藁の状態が荒いことから急遽漉き台の上で行う手順を変更。田んぼに水をはり、そこで直接紙漉きを行う方法を採ることとする。最初の設定の台座設営はほぼ準備完了であったがそこは使わないことになり、吉田さんが対応に走る。翌日ファームインさぎ山の萩原さんがかまどを貸してくれることになった。しかもそのかまどは田んぼの粘土質の土に藁を混ぜてつくった美しい昔風の再現かまどである。腐敗して繊維をとりだしやすくなっている藁も提供してもらい釜煮を続ける。 大鍋で煮た藁を次々と水洗いし灰分を落としていく。

スタートから3日目の土曜日は宮崎清さんをお招きしての藁のSMF学校勉強会が行われ、紹介された柳井さんが前もって漉いた藁紙の見本を皆にみせるとその美しさに驚嘆の声があがる。「これはすっかり発酵した状態の藁を使って漉いた紙なので、このように薄く黄金色です。 しかし、今回は新しい藁を自然灰で煮たため少し黒っぽくなり、荒々しいかんじになり黄色にはなりません」」とスマートに説明を行った。 スタート4日目早朝、柳井さんは煮ても柔らかくなってくれなかった方の藁を叩き、繊維をほぐすことを決心。夕刻にわれわれが合流した時には藁を叩き続けたその手は過重な労働で震えていた。「腱鞘炎かもしれない」「とにかく今日は皆で食べて飲もう」ということで、震える右手を左手で包むように押さえてコップを持った。

 日曜日には10メートルを超える枠が田んぼにできあがったが、ここで今度はビニールの中に水を張るための苦心が始まる。田んぼの端からありたけのビニールホースを伸ばすがまだ30メートル足りない。手押しのポンプで水を汲むのだが、平地で水圧がないのでもう一台大きな水タンクを運んでこようという話しになる。徳野さんがトラックでそれを運んでくれたり、岡村さんが終始気にかけてポイントごとに面倒をみてくれる。さらに工夫を重ね、発動機でエンジンをまわしようやく水が動きだした。駆けつけた田中さんが中心になって2日間重いポンプが押し続けられ、10mプールに水を貯めることができた。藁を叩く作業も続けられ、スタート後6日目にようやく紙漉きの準備が整い、プールに沈めた木枠に叩いた藁原料を次々と投入、皆でならす。水面に漂う原料が均一になったことを確認してビニールに針で穴をあけて水を抜いていった。その日の夜、雨が降り大風となった。朝、心配で木枠へと駆け寄ると資材搬入以来10日間泊まり込んでいる吉田さんが「大丈夫だったよ」と言う。日差しはぐんぐん強くなり、少しづつ乾き始めると雨の足音のように藁紙に落水模様が現れた。雨の記憶もまた紙に入っていったのである。

                                    11月11日  長谷川千賀子 記

11月12日 追記:設営最終日現場におもむくと思わぬ事態となっていた。夜間の突然の風雨で田は水浸し。ほぼ乾燥してゲルに巻くだけになって簡易屋根の下に移動した紙も濡れてしまっている。田の水を逃すために何箇所もに穴を掘る。夕刻ようやく水が引く中で迫る夜に追われながら全員一致の協力で準備が続いた。早朝に田の穴をまず塞ぐところから出発しよう。田んぼの粘土質の層を突き抜けて穴を掘ってしまうとその下の荒い土の層へと水が抜け続ける事態となる。手早い応急に走らなければならない。

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Social Icon
  • Twitter Social Icon
  • Google+ Social Icon
bottom of page