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60年代/農民芸術団“グループどろ” の検証/広瀬川美術館

農村の絵は、土に生まれ

            土に養い育てられて

                      又、土にもどる

(農民芸術団“グループどろ” 声明文より)

1950年代末から、わたしたちは未だかってない生活文化のあり方の転換期を迎えていた。それまで国民のほとんどは食料を自給する農民であり封建的因習という負の要素もあるものの、地域地域に農民の文化芸術が花開いていた。自給が中心であったということは金銭のやりとりではない生活があり、祭りや神楽、歌垣、飲茶、縄文時代以来の漆の利用や焼き物という芸術が息づいていた。

 しかし、工業、商業、優先の時代のなかで若者たちは農業を捨ててどんどん都会に出て行く。出稼ぎにより家族が分断される。耕作機や農薬、肥料を買うための貧困といった様々な問題が発生する。残った農村青年は自分たちが置かれている状況に危惧した。

 農民芸術団“グループどろ”が結成されたのは1957年のことであった。翌年に活動を開始する。真の人間的な農民文化を生み出すという目的をもってのことである。今回のグループどろの検証にあたって、元群馬県立近代美術館の染谷滋氏は先ず彼らの心打つ声明文を次々と紹介してくれた。

声明文:1964年10月

  青く澄んだ空、緑の木々、やわらかにたわゆれ動くたんぼ一面の稲穂、美しい自然に接する心の感動、生きている喜び、こんなすばらしい感動を味わいながら農民と共に出発したグループ「どろ」は結成8年を迎えました。

 農業を嫌う青年たち、農村へ嫁に行くのを嫌う娘達、今まで農業をになってきた人達までが農村を離れる。農村でうたい踊り、農民の働くかてとして代々守り育てられて来た優れた農民文化(民族伝統)は破棄されてうすっぺらな形だけの流行へと 目が移っている。その状態は今日、農村文化と共に農業経営そのものが成り立たなくなり、農村が破壊寸前まで来ている。そのことは当の農民自身が一番良く知っているだろう。

 だから私達は考えるのだ。あきらめるのではなくて、たち向かおうとだれもが自分の生活をささえるために皆働くように、人があたえてくれるのをまつのではなくて、自分達の力で農村を変えようと・・・そして農民の真に人間的なすばらしい明るい農民の未来と農村文化を創造するために私達は活動し絵を描くのだ。農村が一番破壊されている時一番新しい未来の種がその下に用意されているのだ。夜明けは近い。みんなが力を合わせて行動に立ちあがれさえすれば・・・(これは配布資料としていただいた第5回の声明文である)

 また、もうひとつの今回の資料、当時の群馬読売新聞によれば、1957年に高崎市郡南町の北田桂子さん(27)らがグループをたちあげ、県立勢多農林高校美術部の卒業生が次々と加わったとある。彼女は田んぼで始めた絵画展の開催理由を「われわれの絵は太陽の光の下でかいたもので画廊では理解してもらえない」と述べた。田んぼや野良という現場から抽出した絵画を実際の田んぼの景色のなかに置き観てもらいコミュニケーションをもつ。非常に自然の理にかなった着想である。

 画廊に持ち込むことで断ち切られる太陽の光、この意味するところは強烈である。そして現場での展示は鑑賞者に現実と抽出された作品の2種を行き来しての発見の喜びや疑問に繋がり、生き生きとした会話を生んだことであろう。

 さて、彼らの掲げた「群馬県農民芸術団趣旨」の第一項には「本団は農民運動の振興をはかるとともに、文化活動を通じて農村生活の近代化とその政治的、経済的地位の向上に寄与する」とある。

 元事務局の吉田光正氏が中心として今回様々なお話を聞かせていただいたが、60年安保から70年安保にかけて激動の時代でもあった。どろの旗を持ってデモに参加、ムシロの旗をもっている人も最初のうちはいたという。妙義山に基地をつくることに反対しての闘争にもでかけていった。

 創立当初、農家の方が99パーセントであり、農家自らの位置付けーしっかりと深く見ることをグループとして行っていった様子を吉田光正さんからもうかがう。大河原進さんが中心となったという声明文は彼らが芸術の目を通して見抜いた事実を毎回伝え、胸にせまってくる。

 1966年は「戦後の景気向上の時期からベトナム戦争など国民生活のきびしい時期に変り大多数の農民は農業では生活出来なくなり、都市へとおい出されて来ている。10年前農民の連帯のきずなであり、愛と喜びの最高の表現であった豊年おどり、ぼんおどりなどの祭りはほうむりさられ、私達を含め農民、働く人々とは反対に、文化芸術は混乱しみはなされて来ている。なぜだろうか?創る人は勝手につくるだけが画廊に展示してもみにこない文化とは絵画とはこれでいいのだろうか?」

 個人としての美術表現が何を求めどこへ向かうかという内容についても意見交換がなされた。満席の会場の熱き1時間半であった。60年代の美術活動の興隆は社会の激動にかみあってこそ起きたと考えられる。アートの社会性は日本でとりざたされることが少なかったが実は自明であり、良き作家の良き作品は時代を反映する鏡どころの存在ではなく、強い意志を示し時代の方角を見抜いての必然の制作と考える。

 大量に生産し、大量に消費、廃棄する文明、グローバル化のなかで自然に沿った循環型の農はかえり見られなくなり、農の価値感よりハイテクの価値観こそ優先する社会へと人類は今だ経験したことのない領域に突入している。ほんのこの数十年の間に、である。私見だが、今こそどろの考えを確認して前進したい。

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